「マネキンの話 ーマネキン作家が語るー 欠田 誠」

第89話 美術史家・美術評論家 木村重信さんの思い出

木村重信さんが1月30日肺炎のため亡くなられました。享年91歳でした。木村さんは美術に関わる多くの分野で要職を務められましたので、木村重信さんを美術評論家として思い出を語ることは、氏のごく一部を語るにすぎません。先ずは2004年出版の木村重信著作集、全8巻の著者略歴などを参考に大まかな経歴を紹介させていただきます。
木村重信さんは1925年 京都府城陽市生まれ、1949年 京都大学文学部哲学科卒業、1969年 京都芸術大学美術学部教授を経て1974年 大阪大学教授、1989年 大阪府顧問、1992年 国立国際美術館(大阪)館長、1998年 兵庫県立近代美術館館長、世界全域で多くのフィールドワークを行う。
1966年 毎日出版文化賞(「カラハリ砂漠」)、1991年 大阪文化賞、1998年 勲三等旭日中授賞1999年 京都市文化功労者、2001年 兵庫県文化賞、など授賞、民族芸術学会会長、他に著書訳書多数。
関西美術界の中心的存在として活動され、現代美術にも造詣が深く美術評論家として、関西を拠点に活動した具体美術の運動や京都の陶芸家八木一夫、鈴木治 達が参加した前衛陶芸、走泥社の活動など積極的に紹介されました。
日本のマネキン発祥の地が京都という事もありますが、木村さんはマネキンの造形にも強い関心を持っておられたことはあまり知られていないのではないでしょうか。
1971年 七彩工芸(現・七彩)の技術スタッフと目を見開いたまま人体を型取りする技術(FCR技法)を開発、FCR技法でスーパーリアル・マネキンを制作、「視覚の錯覚」展を開催(渋谷・西武百貨店)、1974年第11回日本国際美術展 出品(東京都美術館・他)などの活動をしましたが、木村さんは、このスーパーリアル・マネキンの開発を評価されて、他の展覧会の折にもこれらの作品を出品され、また、色々な著書でも紹介され、日本のマネキン活動を海外に紹介される等、マネキンの発展に寄与されました。

芸術新潮が1993年2月に『戦後美術 ベストテン』という特集号を出しました。美術評論家,キュレイター、ジャーリスト30氏がそれぞれ10作品を選んで紹介する内容です、木村重信さんは、七彩のスタッフが制作して第11回日本国際美術展に出品した作品も選ばれ、FCR(Fresh Cast Reproduction)は、実際の人間をそっくりそのまま型どる特殊技法で、世界のマネキン界を一変させ、スーパーリアリズムの先駆となった。と評価されました。

2002年10月に晶文社から「マネキン 美しい人体の物語」というタイトルで、私がマネキン界で体験してきた事柄や制作を紹介しながら私のマネキン感を綴った内容の本が出版されました。木村重信さんに読んで頂きたいと思って発売前の一冊をお送りしました。15年も前のことです。本の郵送を済ませ2~3日過ぎたでしょうか木村重信さんから分厚い封書が届きました。原稿用紙4枚に丁寧な読後感が書かれていました。
しかも内容の細かい部分に触れて書かれており、ありがたい気持ちと同時に、その対応の速さに驚きました。届いたその日に完読し、書評を書いて投函するという早業は私には想像を絶する事です。「かねがね私は、純粋美術にくらべて、マネキンを含む生活美術が軽視されていることに不満を持ち、「民族芸術界」をたちあげたのですが、このようなすばらしい本が出版され、うれしい限りです。ありがとうございました。」(現分のまま)と評価いただき大いに励まされその後の私の活動のおおきな糧になったと思っています。その時の強烈な印象、感動は今でも新鮮によみがえります。後年、木村さんは多くの公職から解放されてから、数か月をかけて世界一周の船旅に出かけられました。一度も行った事の無い所は2箇所だけだったとのことです。
90歳まで本当にエネルギッシュに生きられた木村さんが「行動する美術史家」として知られていた所以だと思います。心から哀悼の意をささげます。

  • 写真
    1)1977年1月 第20回毎日選抜美術展(大丸京都店7階催場)柱の前で椅子に座る女性を含め5体の出品作 
    2)作品展示作業中会場での木村重信さん
    写真提供・筆者