「マネキンの話 ーマネキン作家が語るー 欠田 誠」

第80話 高度経済成長期のマネキンと今日のマネキン事情

1957年、私が京都でマネキン会社(七彩)に就職して、マネキンの制作を始めてから半世紀以上が過ぎた今、あらためてマネキン企業の歩みを振り返り私の体験を通じて今日のマネキン界が抱える課題を確認してみたいと思います。
 1959年にポリエステル樹脂製のマネキンが完成して約31年間続いたファイバー製のマネキン時代が終わり、新たな時代がスタートするわけですがポリエステル樹脂製マネキンの成功は造形の可能性を大きく広げマネキン界にとって正に革命的な出来事でした。私の真のマネキン体験はそこからスタートしたと考えます。
 マネキンの大手3社といわれた七彩工芸(現・七彩)、ヤマトマネキン、吉忠マネキン、は共に本社が京都に有り原形を作る部署も京都にありました。主に京都の日吉ヶ丘高校彫刻科の卒業生や京都美大の卒業生たちがマネキンの原形制作をしていました。それぞれのマネキン会社に勤めながら彫刻を制作して二科会や行動美術、新制作協会などの美術展で作品を発表していました。マネキンの需要が高まってきた時でもあり、企業は技術を高めることに意欲的で、技術者の美術界での活動を何かと支援し、啓蒙しているところがありました。
 七彩、ヤマトマネキン、吉忠マネキンの3社が「親善を深め、各社の技術協力を図ることでマネキン業界の発展と安定に寄与する」事を目的にマネキン3社会を結成し3社対抗の野球大会やボーリング大会が開かれるなど、また毎年開かれていた新作展示会ではお互いに一年間の研究の成果を披露し、作品を前にして、マネキンやディスプレイを語り、共通のテーマを確認して技術を競い、それがパワーとなって、マネキンが流行を作っているという実感がありました。新作展は外部のデザイナーやアーティストとの貴重な交流の機会でもありました。
 ファッション業界の活動が活発になるにしたがいメーカーは開発の拠点を東京に移すところが多くなり七彩は1953年東京の世田谷区経堂に新たにアトリエを作りそこに技術部門が終結することになりました。
 日本の高度経済成長と近代化を加速させた大きな出来事は1964年の東京オリンピックと1970年に開催された大阪万国博でした。同時にマネキン企業も事業を拡大した時代でした。その後、私たちは景気の変動を何度か経験しました。1980年後半に始まったバブル景気が1990年初めに崩壊しました。
 マネキン企業は拡大してきた事業を整理して、原点に戻り、マネキンを見直そうという本業回帰の動きが盛んになりましたが、ままならぬ企業は倒産するなどがありました。事業の縮小には人員整理という深刻な問題が伴いました。
 好景気に沸いた時代、消費は美徳と言われた使い捨ての時代の産物として、私たちは環境問題など新たな多くの課題を自らに残しました。
 マネキンの生産の拠点を韓国や中国に移してきた事も今後の課題です。当然マネキンの国内生産業の高齢化や弱体化があります。
 今街で見かけるマネキンは頭部が卵形など目鼻のないマネキンが主流で多く使われています。かつてはマネキンにメークの仕事は欠かすことのできない重要な作業で優秀なメークアーティストの存在は不可欠でしたが今はそのような人材が育ちにくい環境です。マネキン事情はすっかり変わりました。けれども、マネキンがディスプレイ、販売促進のツールとして、そして店のシンボル(顔)として重要な役割を担っている存在であることは今も変わりません。
 今日、マネキン界の活性化は大きなテーマだと思います。マネキンの企業はメーカーとしてどんな時であれ作品を開発し発信していかなくてはなりません。それはメーカーの責務でもあります。
 マネキンの歴史の事実を再確認する中に幾つかのヒントがあると思います。先に紹介した先人達が唱えた、三社会の精神を、今あらためて見直すべきではないかと思います。

  • 写真:マネキンのほかに商品の展示、販売のための什器の開発が盛んとなり鉄やアルミなどの素材に接する機会が増え、鉄の素材に興味を持った。ガス溶接の技術を覚え、鉄板や鉄棒を切断、溶接して作った作品・第47回二科展出品(跡)1962年 H170cm 会友推挙
    写真撮影・筆者