「マネキンの話 ーマネキン作家が語るー 欠田 誠」

第77話 マネキンの仕事と彫刻との両立

1957年に京都美大(現・京都芸術大)彫刻科を卒業して、私はマネキン会社、七彩工芸(現・七彩)に就職しました。大手3社と言われた七彩、ヤマトマネキン、吉忠マネキンは、本社、工場、アトリエがともに京都にありました。京都美大彫刻科を卒業した先輩達がそれぞれの会社で働きながら、彫刻の制作を続けて、二科展、行動美術展、などで精力的に作品を発表していました。企業もそれを応援し啓蒙しているところがありました。彫刻を続ける事はマネキンにも役立つことが分かっていたからだと思います。今日では想像し難い事ですが、美術の展覧会やマネキン会社が毎年開催していた新作展示会を通して作家同士の交流はけっこう盛んでした。それは発展途上にあったマネキン・ディスプレイ界発展のため大きなエネルギーになっていたと思います。一方「彫刻をやりたければマネキンをやったら駄目になる」と忠告する先輩彫刻家もいました。彫刻、人形、フィギアの世界で活躍している人達で、かつてマネキンの仕事を経験した作家はかなり多く居られるようです。どのようなきっかけでマネキンの仕事にかかわり、そして止めたのか、事情はそれぞれだと思います。彫刻の制作は全く主体的なもの「芸術は無償の行為」とも言われます、そして自由なものです。一方、マネキンは多くの制約の中で作られるもの、そして常に商品としての価値が問われるもの、マネキンの仕事と彫刻を両立させることは易しい事では無いと思いますが、どこかで自分で納得のいく接点を見つけることが出来ればそれは新しい造形の可能性が広がることに繋がる作家の生き方ではないかと私は思っています。

アルバイトに翻弄されながら美大時代を過ごした経験から、先ず安定した収入を得て彫刻を続けられる環境を作ることが重要だと思っていました。そのためには美術の教職につくことを考え、美大で、教師の免許を取得しました。マネキン会社が毎年原型作家を採用するわけでなく、私の美大卒業の年にたまたま七彩が原型のメンバーを募集しており、美大の堀内正和教授、辻晉堂教授の勧めも有って急遽、七彩に就職することが出来たものの、私はマネキンに特に関心や知識があったわけでなく、抽象彫刻に興味を持っていた私にマネキンが作れるだろうかという不安がありました。然し美大の先輩達がマネキン会社で活躍している事を思い、美術学校で学んだ技術が生かせる職種ではないかと思いました。美術学校を出たからといって1年や2年でマネキンの原形が作れるものではないと言われていましたが実際に手掛けてみると、マネキンという商品作りの難しさ、その世界の奥の深さに気付かされ『マネキンとは』という基本的なテーマに自分なりの答えを見つけなければならないと思いました。新しい環境で私の生活は学生時代と大きく変わりましたが、彫刻は相変わらず美大時代の延長のようにセメントで抽象彫刻を作り二科展に出品し続けていました。然しその頃から学生時代に自分なりの生活環境で作ってきた作品の表現スタイルや素材が、今の生活にはそぐわない実生活とかけ離れた、何かリアリティのない作り物に思うようになり自分の作品に疑問を抱くようになりました。解決の見つけられない自問自答の時代でした。

私の作品の大きな転機は、マネキンがファイバーの素材からFRP樹脂に変わった事、正にFRP樹脂という新しい素材との出会いでした。次回に続く

  • 写真上段より:
     1)1958年・彫刻をディスプレイに活用した例。 彫刻は1958年作(形象)白色セメント 第8回関西総合美術展出品
     2)就業後には会社のアトリエで彫刻の制作が出来たことは有難いことだった。そのままマネキンの仕事を続ける事も自由だった。そんな活動を会社も応援し啓蒙しているところがあった。
    1958年 七彩工芸時代、京都太秦、七彩工芸工場アトリエにて左 筆者
    写真提供・筆者