「マネキンの話 ーマネキン作家が語るー 欠田 誠」

第74話 素材と工法と形

京都美大彫刻科では粘土で作る塑造や、石彫、木彫を一通り学習し、卒業制作は自分に適した素材と表現方法で作品を作ることになっていました。私は石彫や木彫に興味がありましたが私の制作はやり直しが多く、粘土を付けたり削ったりする制作方法になってしまうので塑造が自分には適していると思いました。然し作品は石のように堅牢で、自然と融合し或いは近代建築と相俟って屋外に設置できるような作品を作りたかったので、粘土で形を作りそれをセメントに成型してコンクリートのような彫刻を作りたいと思いました。型にセメントを流し込んで鋳込む従来の工法は作品がとても重く、人手を煩わす上、工法上作る形にも制約が多いので、中を空洞にし、軽くて堅牢なセメント彫刻を作るというのが美大時代の私のテーマでした。思考錯誤を繰り返し独自な工法や道具を考案し、卒業制作は中を空洞にしたセメントの作品を作りました。京都美大では4回生になると公募展などで作品を発表する事が許可されましたので4回生になった1956年、新たに考案した方法でセメント彫刻を制作して第41回二科展、第7回関西総合美術展に出品しました。従来の工法では困難だった複雑な形状も新たな方法では(型にセメントを張り込んで作る)容易く作ることが出来ました。

卒業制作は作品賞、美大買い上げとなり資料館に保存されることになりました。第41回二科展、は特待賞、第7回関西総合美術展は関西展賞第2席を受賞しました。美大の4年間で自分の制作方法が見つかったように思いました。

美大を卒業してマネキン会社に就職し、私の生活は大きく変わりました。マネキンの造形は優れたデッサン力とデザインに対する特別なセンスが求められる奥の深い世界で、この仕事を自分の職業とした以上一日も早く商品として市場に通用するマネキンを作れるようになることが急務でした。

彫刻は相変わらず美大の延長のようにセメントで抽象彫刻を作って二科展に出品し続けていました。今思えばこの数年間は自分が作る彫刻が様式化されたスランプの時期でした。

当時(1957年)マネキンはまだファイバーで作られていました。紙を素材に成型した上に胡粉を何度も塗っては磨く作業を繰り返して形を作る工法は時間がかかるばかりではなく職人の技術による手作りの味わいが深く価格も高くて量産にはそれほど適した製法ではなかったと思います。

1950年代、60年代は既製服のイージーオーダー全盛の時代で百貨店の婦人服売り場ではマネキンが多く使われマネキンの需要が急速に伸びた時代でした。ファイバー製のマネキンは1928年(昭和3年)に島津マネキンが日本独自の製法として完成させたと言われています。約31年間続けられたファイバー製のマネキンが1959年にポリエステル樹脂製のマネキンに代わりました。軽くて丈夫で複雑な形も正確に成型出来て生産性にも優れたポリエステル製マネキンの開発は、その後のマネキン界、ディスプレイ界を大きく変える正に革命的な出来事でした。それは私がマネキン会社に入って2年目の事で、抽象彫刻を作りながら、人体彫刻とは?マネキンとは?という基本的なテーマに悩みの渦中あった私にとって、FRP樹脂という素材との出会いは、自分なりの答えを導く、衝撃的な出来事でした。

50年を超えるマネキン人生には幾つかの節目がありドラマがありました。コンクリートという材質に魅せられ、セメントによる新たな表現を摸索してセメント彫刻を作った美大時代は私の造形活動のひとつの区切りだったと思います。そしてFRP樹脂との出会いは新たなスタートでもあったと思っています。

  • 写真上段より:
     1)2)1956年 京都美大時代、大阪市阿倍野区にあった自宅の屋根裏を改造して作業場を作り彫刻の素材や道具や工法の研究をしていた。昔の住宅の屋根裏は結構天井が高くて広かった新しい工法を考えて屋根裏の作業場でセメントによる小品を制作した。
     3)作品『力』1956年 美大彫刻展(大阪三越デパート)出品 白色セメントに黒大理石の粉を混ぜ、松煙炭をいれて黒いセメント彫刻を作った。従来の工法(型にセメントを流し込む方法)では難しかった複雑な形も新たに考えた(型にセメントを張り込んで作る)方法では容易く作ることが出来た。
     写真・筆者