「マネキンの話 ーマネキン作家が語るー 欠田 誠」

第72話 京都美大時代 アルバイトと職業の選択

私が京都美大の彫刻科に入学したのは1958年(昭和28年)で、当時は戦後の復興に向けて新生日本をうたい文句に近代化を加速させた時代でした。空襲で都市のほとんどが破壊された日本が驚異的な速さで経済大国を作り上げた、そんなエネルギーが凝縮されていた正に発展途上の時代といえたでしょう。デザインや美術に係わる仕事はある程度のゆとりが無いと生まれないものですが、そんな需要を予感させる時代背景がありました。戦地で終戦を迎え帰国した人たちが失った戦友の分まで働こうという意気込みで果敢に起業した時代でした。内容は混沌としたものの工芸高校の就職率は高く特に図案化の卒業生は引く手あまただったようです。美術科にもそれが回ってくるという情況でした。デザインという言葉はまだ使われておらず、美術学校のデザイン科も当時は、図案科といわれていました。私は就職に有利な大阪市立工芸高校に入学しましたが、抽象彫刻に魅力を感じ、京都美大で辻晉堂、堀内正和教授の下で彫刻を学びたい思いが募り、私は進学の条件としてアルバイトをして親には経済的な負担をかけないという約束をして家族を説得しました。自分にそれなりの見通しや自信が有ったわけではありませんでしたが、何とかしなければという気概のようなものが強くあったと思います。

美大の4年間にはいろいろなアルバイトを経験しましたが、大阪のある幼稚園で、休みの日に教室を使わせてもらい子供の美術教室を立ち上げた事、大手の商事会社の仕事で輸出用の琺瑯(ほうろう)の器に絵付けをする為の絵を描く仕事、主にこの二つのアルバイトで美大を卒業する事ができました。仕事をしながら昼の授業の単位をこなす事は予想以上に大変で時間と体力の勝負といった4年間でした。学生の多くは授業の単位を3回生でほぼ終了して、4回生はほとんどの時間を制作にあてるというのが大方のパターンでした。4回生になると一般の公募展などで作品を発表する事を許可されるので教科以外にも自由に作品を作って団体展などで発表する事ができたのです。私はアルバイトのために一般教科の単位を4回生までかなり残さざるを得なかったために、休日や放課後遅くまで残って作品つくりをする事になりました。当時は公立の美術大学といえども設備は乏しく彫刻科にはクレーンや電動工具なども無かったので大きな作品や重い作品などの制作は、お互いに手助けをし協力し合って制作していました。私のような時間帯で制作するとなると友人の手助けも出来ない代わりに力を借りる事も出来ませんので、人の手を借りずにマイペースでセメントの作品を作る方法を摸索し開発したのが、石膏の型にセメントを張り込んで中を空洞にした軽いセメント彫刻を作る工法でした。これは、型にセメントを一気に流し込む従来の方法では作れなかった複雑な形のセメント彫刻の制作も可能にした便利な工法でした。私の卒業制作も、4回生の時に始めて二科展に出品した作品もこの工法で作ったセメントの作品でした。

美大卒業後は教職について生活を安定させ彫刻の制作を続けようと思っていましたが、免許は取得したものの結果はマネキン企業に就職する事になりました。

街頭で似顔絵を描いたり、看板の絵を描いたりしながら定職に付かず制作に励んだ作家が何人もいました。学生時代はともかく、社会に出てから制作を続ける為には、職について生活を安定させる事が大切だと私は思っていました。先ず生活ありきで、その中から生まれるもの(その中からこそ生まれるもの)が制作のテーマの基本だという思いは今も変わりません。

  • 写真上段より:
     1~2)美大時代のアルバイト美術教室風景
     3)児童が作った立体作品
     写真提供・筆者