「マネキンの話 ーマネキン作家が語るー 欠田 誠」

第53話 「堀内正和へのオマージュ展」にちなんで その2(堀内先生の思い出)

作品「横たわる」

堀内先生は1954年から鉄を溶接して線による構成的な抽象彫刻の制作を始めたと紹介されています。それから鉄板による面の構成さらに立体の構成へと移りますが、1954年は堀内先生が居られた京都市立美術大学・彫刻科へ私が入学した年で、先生はいつも彫刻科の研究室で制作されていましたので、線と面の構成時代の一連の作品は特に印象深く鮮明に覚えています。

堀内先生の作品は正確な図面や紙で作ったマケットを基に、溶接の専門の技術者あるいはFRP樹脂の専門の技術者によって作られます。このような制作を発注芸術といって今日では広く知られていますが、彫刻は作家が粘土と格闘し、のみで木を刻み、石を削って形を作るものだという考えが一般的な中で堀内先生の制作方法はやはり先生独自なものだったと思っています。紙で作られたマケットは正に創作の源泉と言えるものでペーパースカルプチュア〈紙彫刻〉と呼ばれているようです。

堀内正和展の案内の特製ハガキ

線や面を構成して作られた明快な幾何学的な抽象彫刻は、冷たい抽象といわれますが、堀内先生の作品は例えば線の構成による作品は人体を思わせる形であったり、女性が横たわっているイメージがあったり、機知に富んだユーモアと独特なエロティシズムは冷たい抽象とは対極をなすもので、其れは堀内芸術の核をなしている部分だと思っています。のどちんことはなのあな 1965年、エヴァからもらった大きなリンゴ 1966年、ANDROGYNOS 1969年、等など、現代彫刻史の中で堀内芸術 独自の領域だったのではないでしょうか。

1976年に京都市立芸術大学を辞され後に東京青山の自宅に戻られてからは、堀内先生を囲む会《堀内正和フアン(不安)クラブ》(不安は先生が自称)などを有志と立ち上げて東京青山の自宅アトリエや時には伊豆の別荘に度々 集まっては酒を飲み(先生はこの飲み会をとても楽しみにしておられた)《堀内正和フアン(不安)クラブ》は先生が亡くなってからも淳子夫人を囲んで数年続けられました。

先生の思い出として大事にしている「アート・ティクニック・ナウ」堀内正和の彫刻 河出書房新社発行についてこの機会に披露したいと思います。

この作品集は、国際的に活躍する美術家が明かす作品集をかねた技法書、として全20巻発行されたその10巻目 1978年2月に発行されたものです。私は先生のお宅に伺う機会にその作品集を持参してサインをしていただくことにしました。先生は即座にその本の計4ぺージにそれぞれ作品の展開図や説明文に赤色のボールペンで加筆され、更に作品「横たわる」1952年 の写真の部分に、別の紙に鉛筆で黒く塗って切り抜き、作品写真の肘の部分に貼って修正され、〈掲載写真1参照〉私だけの貴重な作品集を頂くことになりました。ちなみに、本の74ページ、作品「横たわる」の解説文には、「・・・・脚の部分が建物の屋根のようにゆるやかな傾斜をもって横に広がり、それを肘ついたU字型の腕が下から支える、その力関係が得意だったのだが、今は肘のところが欠けているのでよくない。(本文の一部引用)」と書かれています。後日、神奈川県立県民ホール・ギャラリーで開催された 堀内正和展 案内のハガキには,「先日署名し訂正した本の作品6の欄外には下のように書くべきであった。機会があれば書きましょう。カケタところを補正した。これがマコトのもとの形」と書かれていました。

学生時代からずいぶん長い年月、京都美大時代、二科会時代、そしてマネキン時代、堀内先生の思い出は尽きませんが、今日紹介した本と一枚のハガキはセットで堀内先生のお人柄が詰まった私の大事な宝物です。

  • 写真上段より:
     1)堀内先生が作品集の写真を修正した 作品「横たわる」の写真
     2)多く書き込みがされた 堀内正和展 案内の特製ハガキ